ちょっとだけ、最近考えたことをつらつら書いてみようと思います。


コミュニケーションについて少し考えたことがありました。例えば「話すこと」一つとってみても、言いたいことを端的にうまくまとめればそれはユーモアとか批判とか何らかの価値が見出されるものになったりするけど、言葉足らずで誤解が生じたり、思いが伝わらなくてヤキモキしたりするかもしれない。逆に正確に伝えようとすればするほど沢山言葉を使うけど、ただ長いと(この文章みたいに)雑音にしかすぎなくなったりしますよね、聴く気もなくなるし。「この人ならこれくらい言えば分かってくれるだろう」っていう相手のレディネス(準備段階)を把握した上での会話を考えなきゃならないこともあります。これは趣味とか何かの専門分野とかの話をするときに顕著かもしれません。


そんで心地いいコミュニケーションを考えてみると、特に会話においてはお互いに流れる通奏低音がより多く合致した相手とのやりとりはスムーズなことが多い気がします。要は、冗談とか皮肉とか相談事なんかを1話せば8位理解してくれる。逆に言うと伝えたくないことまで伝わる可能性もあるのだけど、その懸念と同等かそれ以上に「話していて楽」って感覚は「この人と話したい」って気を起させる価値があると思います。「類は友を呼ぶ」っていうのはこの辺に起因してるのかな、と思ってもみたり。


ところがどっこい、自分は話していて楽でも相手からすると「楽」なのかは分からない。相手のレディネスがぐーんと上の段階をいってて自分があまり整ってないと、相手は「話しても分かってくれない」って思うかもしれない。これは一番「話す気」を削ぐと思う。


私は心理系大学院を目指して今勉強しているのだけど、カウンセラーとか○○相談員とかはこのレディネスや通奏低音をしっかり幅広く持っていなければならないのだろうと感じました。いろんな経験をしてたくさんの種類の本をいっぱい読んで、人間性を研磨しなきゃならない。クライエントさんが話す言葉から、態度から、表情から放たれるメッセージを感じ取る準備をしなきゃならない。予備校生時代のこのモラトリアムをうまく使ってもう一皮つるんと向けた人間になりたい!と思ったりしたのでした。ちゃんちゃん。わーしりすぼみー!